◎  確かな信心を頂き、子にも孫にも伝える信心。  神の機感に適う氏子にならして頂く為の基礎。。。


昭和四十四年六月四日 朝の御理解


X御理解第七十八節「神の機感に適うた氏子が少ない。身代と人間と健康とが揃うて、三 代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感に適うたのじゃ。神の機感に適わぬと、 身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢こうても身代をみたすことがあり、ま た大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、 互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もで き、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」 


 一年勝り、代勝りのおかげを願わねばならんと、またみんな願うてやまぬことでもある。親の代よりも子の代というように、おかげを頂きたい。そこで、こうやってお互い信心させて頂いているけれども、先のことである。ね、私共が、いわば、死んだ先の事である。子供が又は、孫がどのようにおかげを受けていくかという事は、いわば、見らんじまいに、あの世に行ってしまわなければおられんのである。

何かがいうなら私共がここにあの、「三代続いたら神の機感に適うた氏子」とおっしゃるのですから、私共が信心を頂いて、そして、そのいうならその初代を賜っておる訳ですね。合楽の方たちはほとんどそれです。ですから、例えば、私共から信心を頂かしてもろうて、そして、それが二代、三代に続いていく。成る程これならば続いていくだろう。これならば子供の代、孫の代に、子孫繁盛になっていくだろうと、いうようなですね、確かなものを頂いておきたい。そして、その確かなものを子供にも孫にも残しておきたいと思う。

 信心しておかげを受けて、ただ、財産が出来たと、いったようなものだけでは頼りにならん。財産を残しておくというても、その財産だけでは、ここにもありますように、財産はあっても、大事な者が死んでとこういうことになったんではなりません。今日はそういう神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる、とこうおっしゃる。神のおかげを知って互い違いにならんで済むようなおかげを頂き続けれるところまで私共がひとつ作っとかねばならんという事である。今の言葉で言うとタイミングよくという事です。すべての事にタイミングようお繰り合わせを頂いてゆけれる信心。

 私共がそのおかげを頂いとかんといて、そのこの調子、このとおりでいけば子孫に続いていくであろうという事が確信出来ける訳ですねえ。神のおかげを知らぬから互い違いになってくると。神のおかげを知るという事は、何を以ておかげとさしてもらうか。また、そのおかげの第一とするのは、どういう事であろうかと、私は思うんですけれども、皆さん、どういうふうに神のおかげをキャッチしておられるだろうか。なるほど、分からして頂けば頂くほど、神様のおかげでないものはひとつもありません。もう私共が生きとし生けるものの上に、天地の親神様のお恵みをはずしたら、それこそ一切のものが、枯れ果ててしまうような結果になるでしょうが。神様のおかげを知らんと。よく言いもし、言われもします事ですけれども、何というても今日私が、ここにあるという事。今日私がここに生きておるという事の事実というものがですねえ、私はおかげの最大なものではなかろうかとこう思う。

 私共の信心が子孫に続いて、しかもそれが万事万端のうえに、ご都合お繰り合わせを頂いて、おかげを受けていくと、信心させて頂いてもなかなか自分の思うようにならない。右と願っても反対に左になる。左に願っても右になるという間はですね、私はまあだ、まあ、三代続いたら、とおっしゃるような、そういう基本のものが出来てない証拠だと、まず、知らきゃいけないと思う。ね、もうめぐりのいわばお取り払いを頂いておる時だと。神様のおかげは段々分かってきたけれども、まあだ、そのめぐりのお取り払いを受けてないのだと。まあ、いうならば、基礎作りの時だと、より本当の信心を分からしてもらい、神のおかげをより深く広く分からして頂く時だと、分からなければいけんと思う。

 どんなに自分の思うようにならないでも、やっぱり、それを神様のご都合として頂いていく。確かに神様のご都合に間違いないから、そのどういうご都合であるかという事をです、結局、神の機感に適う氏子にならして頂く為の基礎が出来ておる時だという事になるのですね。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくると、おっしゃるのですから、たいてい神のおかげは分かっておる、知っておるようであっても、まあだ、互い違いになってくるところをみると、本当のおかげ、本当のおかげはまだ知っていない事になる。

 それで、そのおかげの最大なものは、先程も申しますように、今日、私がここにあるという事。私が今日ここに生きておるという事。その事実をですねえ、私共がまず知らなければならん。それもただ、理屈のうえで知っただけじゃ駄目。ほんに話を聞けば、そうじゃなあと。例えば、どんな難儀なことがあって、その難儀を感ずるにいたしましてもです、難儀を感じておるという事は生きておるからこそ感じておるのである。もし死んでおったら、その難儀すら感じる事が出来んのだと。まあ理屈をいやそれだけなんですけれども、私は、その「神のおかげを知る。」と、「神の大恩を知る」というふうに、ここでいうておられますが、神の大恩を知り、神のおかげを本当に知る、そのおかげの最大なものは私が今日生きておるという事。

 そんならね、生きておるという事が分からして頂いたら、どういう事にならなければならんかというとね、この命のあらん限り、その神の大恩に対し奉って、神のおかげに対し奉って、神の大恩を知ればとおっしゃるが神の大恩を知ったらどういう事になるか、また、ならねばならんのか。神のおかげを分かるという事によってです、例えばそこに難儀を感じておっても、その難儀を感じておれれるという事は生きておるしるしだと、分からしてもらう。その生きておるしるしをですね、神の大恩を知れば、その生きておる事、命があるという事をです、その命のあらん限りをです、どう行じさしてもらうかと、どう使わしてもらうかと。

 今日もひとつ金儲けの為、一生懸命働くぞと、又、働かして下さいと、お商売をする人は、どうぞ今日も一日、十二分にお使い回し頂きますようにといったような事を言うたり、願うたり致しますけれどもです、その神の大恩を知り、神のおかげを知ったらです。そのおかげの最大なものを今日、私がただ今生きておるという事。その生きておる命のあらん限り、どうあらせてもらうかと。いうなら、ここで神様の機感に適う一日であるようにという事。私は、神様のおかげを本当に知ったらです、又は、神の大恩を知ったらです、その大恩に報いるという事がです、今日一日です、いわゆる命のあらん限りをです、その大恩に報いる心が、心の底から感じられ湧いてくるおかげを頂き、神恩報謝の真が生活の上に表される事をただ、ひたすらに願うという信心。その時、私は初めて神の大恩を知ったということになるのじゃなかろうかと思うです。

 私は昨夜、やすまれぬままに、そんな事を考えさして頂いた。時々、私はそんな事を考える。今日こうやって生きておるという事はですねえ、やはり、生きておる事の事実をです、このー一番、痛感させてもらうという事は、やはり、死ぬるという事を考えないと、生きるという事がはっきりしてこないです。

 例えて申しますと、ひもじい思いをしなければです、食物の有り難さが分からないようにです、死ぬるという事を本気で考えてみなければ、はぁ、私は今日生きとったと、今、私は生きておるんだと、とにかく、自分が生きておる事にびっくりするようなですね、感動が湧いてこない。死ぬるという事を考えないと。いやこれは私でもやっぱり、一遍は死ななきゃならないのだと。そんならです、いつ神様からお引き取り頂くか分からんけれどもです、いつ死ななければならんかわからないけれどもです、それまでにいよいよ神のおかげを知り、神の大恩を分からしてもろうて、これから先、何年生きるか、何日生きるか、そりゃ、私共は障子一重がままならぬ人の身のことでございますから分かりませんけれども、それこそ、命のあらん限りをですね、神様のお心に添い奉る生き方をしておかねばいけないなという事を、もう心の腹の底からその事を感じられる訳です。

 そういう思いをさせて頂いておりましたら、例えば眠れないとか、そういうような苦痛といったようなのはない。ただ、もうそれこそ枕が濡れるように、涙がこぼれてくる。生きておるという事実に、改めて直面したような感じである。私共がこうして生きておることを当たり前のように思うけれども、一遍、ここに私共が死ぬるということをね、考えたら、初めて生きておるということの有り難さが痛感される。初めて神の大恩を感じさせてもらう。そして、この命がまた、明日の朝まで続いたら、目が開き次第にあなたの機感に適う私でありたい。また、それを行じさせてもらうことを願わなければおられない。

 神のおかげを改めてです、分からしてもらう、その神のおかげの第一であることが、今日、ただ今、私が生きておるという事実。それを改めて、その生きておる事実に直面する。そこから感動的に起きてくる心が、いわゆる、神恩報謝の真が今日も捧げられる一日でありますように。いうならば、神様のお喜び頂ける一日でありますように、私でありますようにという願いが、切になってくる。

 そういう私は信心内容からですね、そこから、私は互い違いになってくるというのではなくてです。必ずや、素晴らしいタイミングの中に今日一日を過ごさせて頂くことが出来るおかげが約束されると思う。してみると、どうぞ商売の上にお繰り合わせを願わんでもですね、いろんな問題、たとえば、それを細々と願わなくてもです、ここのところが分からせて頂いたら、最大のおかげをおかげと分からして頂いたら、ね、感動的に神様のお働きというか、神様のおかげに報いねばおられないものが生まれくる。私はそのときに初めておかげを知ったということであり、大恩を知ったということじゃなかろうかというふうに今日改めて思うのです。

 大恩は知っとるけれども、おかげは知っとるけれども、例えば、神様に喜んで頂けれる一日でありますようにというような願いというものは、起こってこなかったり、そういう感興が湧いてこなかったらです、それはおかげを知ったことでもなからねば、大恩を知ったとは言えんのです。

 本気で私はさっき申します今日も一日、あなたのお心に適う一日でありますようにという願いはもっておりましても、なかなか、神様の機感に適うような、いうならばお粗末ご無礼の一日でありますのは、いわゆるまあだ、本当の意味においての神様のおかげを実感していないからだと。神様の大恩を本当に心の底から知ってはいないからだと。本当にそのことが知り分からして頂いたらです、それに反射的に心の中に感じるものはです、今日生きておるということの、この命をです、とても粗末にでも使うことは勿体のうして出来なくなってくる。という程しのものがです、感じられ、感じとられるようにならして頂いた時に、初めて神のおかげを知らんからとおっしゃるが、神のおかげを知ったということになるのだと、私は思います。

 それには一遍、私共がですね。死ぬるという事実。まあ、私共人間の一番重大事であります。とにかく死ぬるということを考えますとね、第一ね、死にたくないな、という気がいたしますね。やっぱり死ななきゃならんのだろうかと。このままの若さで百年も二百年も、いうなら、もっとたくさんでも生きたいといったようなですね、なんとなくそういう心が起こってくるのです。けれども、よくよくその死の事実というものをです、いわゆる直視致しますかね、そのことをじっと思い詰めてみますとですね。どうせそれでも死ななければならないというところに思いが至ります。その死ぬるということは、いつかは分からん。いつお引き取り頂くか分からんのである。そんならね、いつお引き取り頂くか分からんのだから、いわば、いつ死ぬやら分からんのだから、まあ、楽のし放題にさせてもろうてと、好きなもの食べたり、好きなことしてから、と、そんなことは考えられない。いつ死ぬるか分からない、例えば、そういうその命であり、という死ぬるということを直視しますとね。その死ぬる間際までです、神様のお心に添い奉らなければおられないという心。が、反射的に私の心の中に生き生きとしてくる。

 いつ死ぬるやら分からん私達。いつお国替えのおかげを頂くか分かん。そこんところをです、思い詰めさせて頂く時に、初めて今、生のあることが、息のあることが有り難いと感じられる。そういう今生きておるということが、有り難いと感じられる。そのことが神のおかげを知ったことであり、神の大恩を知ったことだと思います。ですから、そのいわゆる命のあらん限りをです、その神様のお心に応え奉らしてもらおうという心が起きてくる。そういうところまで、お互いの信心がですね、高められなければいけない。

 そういう信心を頂いたらです。私共、日常生活のうえにおいてです、互い違いになってくるようなことはない。あれもおかげ、これもおかげと、真実思われる程しにです。もう、実にタイミングよう、万事万端、神様のご守護を受けておるしるしだなと思われる程しのおかげが、私共の身辺を包んでくれる。そういうおかげが樹立される。そういうおかげが頂かれる。その時に私は初めてです、この信心なら、子供に伝わるぞ、孫に伝わっていくぞと。これならいよいよ、神の機感に適うた信心。いわば初代としての信心の基礎が揺るぎなく出来ていきよる。また、出来ておる。というようなことになってくるのだというふうに思わしてもらいます。

 「人間と身代と達者とが三代続いたら」と、さあ、おかげで自分なりにですよ、自惚れを持たぬ者はおりませんから、自分も人間が大体出来たと、こう思いますか、おかげで身代も出来たと、おかげで健康でもあると。そういうものを頂いておるというだけではですね、心もとない。果たして、これが子に孫に伝わるだろうか。信心はなかっても、そういう人はざらにはあろうと思います。なかなかの人格者、財産もある。健康でもあると、けどもそれが三代続かなければ、神の機感に適うた氏子ということはいえんのである。そこで私共がです、そんなら神の機感に適うた氏子というのはです。真実神のおかげをおかげと知り、大恩を大恩と分からしてもろうて、その大恩に報い奉る今月今日があらなければならん。しかもその大恩に報いるとか、おかげに対するおかげを知るということはです。今日、私が生きておるという事実をです、もう最大限に有り難いものとして分からして頂く為に、死ぬるという事実を一遍、ここに思わして頂いて、いつ死ぬるやら、お引き取りを頂くやら分からない。そこから起きてくるものは実を言うたら死にたくないである。けれどもよくよくそこんところを思い詰めていくと、これは死ぬるということは、死の現実というものがね、はっきり、いくら死にたくなくても、死ななければならんのだと分かったところからです。その死ぬるまで、命の有らん限りをです、神様にお喜び頂ける私であらなければ相済まんなあという心が湧いてくる。そういう心のですね、本当に頂けてくることが、私は、これならば私は「三代続いて」と、おっしゃるが、そういう信心を以て、子孫に続くといったようなおかげが頂けるという確信が持ててくるというふうに思います。

 えらいお話が、私が頂いておる一番、今日実感して、一番、有り難いと感じておることを、お話するのでございますから、皆さんには、大変分かりにくかったかも知れませんけれども、段々、神のおかげを分からしてもらいよる。神の大恩を分からしてもらいよると言うけれどもです。それが実際、その大恩に報い奉るところの行動というか、その切な思いというものが、このように激しく自分の心の中に頂けてくる。

 初めて例えていうならば、今日、お生かしのおかげを頂いておる、いわゆる目が覚めたということがです、感動的な有り難さになって頂ける。その感動的な有り難さが今日一日をです、いよいよ神の機感に適うた、神様のお心に適うた生き方、在り方に、いよいよ本気でならして頂こうという心が頂ける。こういう心が子にも孫にも、いよいよこれならば伝わっていくのだなあ、というようなものを、今日私、実感致しましたが、いよいよお互いが子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るぞ。とおっしゃる。出来るぞとはっきり断言しておられますおかげを頂く為に、また、子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを願わない者はありません。それを願うなら願うほど、いよいよです、私共が死という、死ぬるといったようないやなこと、願わくば死にたくない、そういう死ぬるということも一遍、本気で考えてみて、死にたくはない、けれども、死ななければならないという、そこをつきとめたらです、死ぬる間際まで命の有らん限りを神の機感に適う生き方にならして頂こうというような心の起きてくるところまで、信心を進めていかなければいけないと思いますね。どうぞ